明治期の京町家と火袋・準棟算冪

火袋に、準棟算冪とよばれる大きな木組みを組むようになったのは、明治期の京都の大型の町家の特徴です。

火袋は、炊事などで発生する煙や湯気を高く広い空間に逃がすための設けられる空間で、町家に限らず大型の古民家ではよく見られる構造です。
この写真で言うと、太い梁が、奥行き方向に一本(牛梁)と幅方向に2本(側繋ぎ)あるのが分かると思いますが、ここまでは普通にあるものです。

明治期の京都の町家で流行ったのは、これらの梁の上に木組みを屋根まで組み上げる構造(準棟算冪)です。
江戸時代は、商家は、派手なことをしてはいけないと何度も幕府等からのお触れがでましたが、明治になりそういう縛りがなくなったので、余裕のある商家の家では、このような準棟算冪を火袋に組み上げるのがはやりました。
この準棟算冪は、普通であれば壁の中に埋もれて目には見えない木組みの細工(仕口)が顕わになるので、大工さんにとっては腕の見せ所であり、また施主さんにとっても自分の家はこんな凄い木組みを組んだんだと見栄をはる所になったわけです。

したがって、江戸時代の町家にはこのような準棟算冪は見られません。もしあるとしたら、明治以降の改築により導入されたものと思います。
さて、江戸から明治への変換は、日本中で同じようにあったのに、準棟算冪は、なぜ京都の町家の特徴になったのでしょうか?
それは、幕末に大災難が京都にだけ襲ったからです。

どんどん焼けのに関する瓦版

幕末の京都は、薩摩・幕府軍と長州軍が争う禁門の変がありましたが、この時の戦火で、京都の市街地は一面焼け野原になってしまいました。現在の祇園祭の山鉾を出すような中心市街地はほぼ丸焼けとなってしまいました。戦火が、あっという間に京都の街を焼き尽くしてしまったので、この火災のことを「どんどん焼け」というようになりました。このことで京都は非常に荒廃・困窮する状況になり、東京に遷都する一因にもなったと言われています。
つまり、明治になって、ほぼ全ての家が建て直しをしたわけです。いわば、京都には、建築ブームが起こったわけで、そのなかで、人と違うちょっと派手なことをしてやろうというところから、準棟算冪が生まれて、京都で流行ったと考えられます。これが、準棟算冪は、明治期の京都の町家の特徴と呼ばれるようになった理由です。
ちなみに、京都には、江戸時代の町家はほとんど残っていないということになります。つまり古くて、百数十年の町家が一番古い町家であるということになります。
最後に、ひらかた京町家の牛張り(長手方向の一番大きな梁)ですが、京都から枚方に移築する際に、淀川の舟運によって運ばれてきました。その際に長すぎて船に乗らないということで、半分に切って運ばれてきたので、真ん中の側繋ぎの上で継いであります。つまり、見掛けほどの役に立っていない、もっといえば、この太さ大きさは、見掛け・見栄のためのあるというのが分かってしまう所です。



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